5月21日、日本共産党大阪後援会に招かれて、東日本大震災・原発事故についての講演に行ってきました。その時の全文です。ぜひ読んでみてください。
テーマは「大震災と原発事故の現状と日本共産党の奮闘」です。
以下全文です。
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2012年5月21日・大阪講演
○皆さんこんにちは、私は、日本共産党・福島県会議員の宮川えみ子と申します。今日は皆さんにお会いできることを楽しみにやってきました。昨年3月11日の東日本大震災は東北を中心に未曾有の大震災になりましたが、それに加わる原発事故で福島県は大変困難な状況になっています。それでも1年たってようやく大阪まで出向くことができるようになりました。
まず、最初に皆さんに大きなご支援をいただいたことに心からお礼を申し上げます。
ありがとうございました。
○私の自己紹介ですが、私は、市議を25年、県議は昨年11月の選挙で再選され6年目です。子どもが2歳と3歳の時が初めての立候補で、今は孫が中学生と小学生になりました。議員をしながら車椅子の母を6年介護し見送りました。
私のごく近所からは、自民党の衆議院議員・候補者が小選挙区制と比例と両方出ていて、また、参議院議員もいて、この前までは市長も出ていて、みーんな、自民党で、大変保守的なところです。
それでも、今度の県会議員選挙で、日本共産党はいわき市選挙区から複数になりました。県全体では3人から5人になりました。同じく震災を受けた岩手県・宮城県は県会議員の議席を倍加しました。
○ 今日は、「大震災と原発事故の現状と日本共産党の奮闘」とのテーマでお話をということですが、大震災は、あまりにもすさまじく膨大で全体を話すことはとてもできませんので、ごくごく一部の話、私の周りから見ただけの話と思って聞いてください。
○ まず、今回の大震災で直接亡くなった方はほとんどが津波で、福島県は1,605人、宮城県9,512人、岩手県4,671人で、被災3県のうち福島県は3番目なのですが、震災後、体調を崩したり自殺したりした関連死は764人(4月28日・福島民友)と最も多いのです。それは、原発事故による避難が続き何箇所も人によっては十数か所も点々と代わる避難生活の中で、お年寄りを中心に避難先で亡くなる方が多く出ているからです。
放射能に農地を汚染され展望を失なって自殺したキャベツ農家の方や、牧場主もいます。最近、一時帰宅中に焼身自殺した奥さんの死を、ただの自殺に終わらせたくないと東京電力に賠償請求したかたもいます。
津波に会ってもせっかく生き残ったのに、原発事故で捜索に行くことができず衰弱死したという痛ましい事態もあります。
助けを求める声がした、一人では助けられないので、みんなと来るからな!と言ったのに、原発の爆発で避難命令が出て、行けなかったと泣きながら証言している消防団の方がいました。放射能防護服を着て捜索に入れたのは1か月以上もあとのことでした、行方不明者の捜索に立ち会った役場の課長さんは、防護服を着たまま線香をたむけ、橋の上に立って、この下にまだたくさんの人がいると言っていました。悔しい切ない関連死です。
○ 私は福島県の太平洋岸の最南端・茨城県の県境・勿来というところに住んでいます。津波は私の近くの浜も襲いました。コンクリートの堤防が張子のように波で飛ばされ、多くの方が亡くなりました。
区長さん・副区長さんの奥さん・民生委員さん・会計さんと3分の一近い世帯で亡くなった地区もあります。何をどうしたらいいか、励ましたらいいか、右往左往しながら、結局バナナなんか持って行ったりして・・、励ましや御用聞きをしたりしました。バナナは煮たり焼いたりする手間がないので有効でした。自衛隊も・消防も・地域の人にも食べてもらいました。津波で道がなくなり、やっと道ができて重機が入って壊れた家の屋根を押しのけるとそこに子どもがいます。親はいるところを知っているんです。ペットボトルの水で亡くなった子どもの顔を拭いてやっていました。
ある漁港では、あの何十メートルの大波の中、船を10マイル・16キロも沖に出して、こんなところで死んでられっか!と飲まず食わずで、十数時間も命がけで船を守った、寒さに震えながらがんばった話を聞きました。港に船を置いていたのでは船をすくえません、大津波警報が出ると漁師たちは命がけで船を沖に出すのです。エレベーターに乗ったような大波に垂直に向かいます。少し角度がずれると船は転覆するといいます、波を乗り切れなかった仲間の船が沈んでしまうのを見ながら、恐怖と戦って船を守りきって港に帰ったら、港はめちゃくちゃ、家も家族もいなかったという人も居たと、漁師の話も聞きました。
○ それでも、津波はその時が悲劇のピークです。原発はそれが苦しみの始まりだったのです。
福島県は東京電力の原発が10基もあります。太平洋に面した海側の福島県の、ど真ん中にあります。その内、今回大事故を起こしたのは第一原発の6基のうち1~4号機で、水素爆発事故等をおこし放射能を撒き散らしました。第一原発から10キロ離れて第二原発の1~4号機がありますが、それはそのまま止まっています。燃料が解け落ちた・メルトダウンした第一原発の放射能は、広島型原発の2千基分あり、今回放出されたのは、そのうちのわずか数%と言われています。
○ 国は、原発から丸い円を画いて放射能の汚染状況を示しましたが、実際は放射能の雲が飛んだ時、雪や雨が降ったところなどに定着してしまい、そこから高い放射能が検出されています。原発から北西方向に帯状に向かって60~80キロ位い、強い汚染が広がっています。また、ホットスポットと呼ばれる点々とした局地的な強い汚染箇所もあります。
スピーディーをみていると放射能の雲は日本列島の半分くらい飛んでいたようで、静岡のお茶や東京の水にも放射能は検出されました。私の住んでいるところは原発から60キロ位なのですが原発の雲が飛んだとき雨が降らなかったことや海に拡散したことなどがあって、そんなにひどい状況ではありませんが山あいは高いです。
原発から10キロの自宅に一時帰宅で戻った人が、自分で持ち込んだ測定機で計ったら家の周りが500マイクロシーベルト・毎時あったと聞きました。
○3・11の大地震・大津波そのあとの原発事故は、私たちの全てを変えました、戦前戦後的な激変といえます。強い放射能汚染で全村避難をさせられた飯館村の村長さんは「津波で祖父母・親・きょうだいをなくした高校生や、幼いこどもがテレビに出ていた。泣いてわめいて心に傷を負って、それでも、ゼロからのスタートになると思う。しかし放射能はゼロからスタートできない。-20年か-30年か、世代を超えてゼロに向かうしかない」といいました。放射能は見えない・匂いもしないのです。
この前、この飯館村を通ったら、誰もいない家々にきれいな花が咲いていました。そして田畑には、ぼうぼうと草が生えていました。
○ 避難指定区域でなく、人間が住んでいる低レベルの放射能地帯でも、今後どんな影響を及ぼすか分からないのです。特に子どもは放射能の影響を受けやすいと言われていますので、子を持つ親の心配は深刻です。子どもを外で遊ばせられない、避難したらいいのかどうなのかと、若いお母さんは悩んでいます。外で遊ぶことができない子どもが、テレビで落ち葉遊びをしているところを見て「昔やったよね、僕も」と言って、テレビにおもちゃをぶっつけた時、母親は避難を決意したといいます。
○福島県は、今も16万人の避難者がおり、その内、母と子を中心とした県外避難者は6万3千人もいて、北は北海道から南は沖縄まで避難しています。ここ大阪には1500人くらいの避難者の方がお世話になっています。最近、多く避難している隣の県・山形県や新潟県にも行ってきましたが、避難生活が長引くにつれ経済的・精神的負担も多くなっており深刻さもましていました。
避難はあまりにもリスクが大きいので、心配をしながらもとどまっている人、また、県外でなく、放射能汚染のない少ない同じ県内に避難している人は、10万人もいます。このうち私の住むいわき市には2万3千人もの方々が移ってきており、市内は仮設住宅が林立しています。一年経った今も、これらの多くの方々は今後どこに住むことになるのかはっきりしていません。
この前あった、全町強制避難の富岡町の町長さんは、原発事故前は、推進のリーダー役でした。増設要望に共産党の議会控え室に来て、「あなたたちとは考えは違うが」と言ってあいさつをされていましたが、今、町民の怒りと苦悩の前に、がんばってはいるようでしたが、なんと励ましていいか・・、言葉もありません。
また、双葉町というところは、役場ごと300キロも離れた、埼玉県の加須市の廃校になった高校跡に避難しました。
共産党は、避難した人も、しないことを選んだ人もその立場を尊重して支援に全力を挙げています。
○ 私は、昨年9月の選挙直前の県議会で、日本共産党県議団を代表して、新婦人が提出してきた「福島原発全面廃炉を求める意見書」を採択するように議場で次のように訴えました。
原発事故は、私たちの暮らしのすべてを一変させた、原発立地地区では、津波にあっても生き残ったであろう方を見殺にした、故郷に帰れない多くの県民を生み出し、土にこだわって農業をなりわいにしていた人も、おいしい「あんこう」など魚を取って暮らしていた人も、田舎に遊びに来た人にきのこを売って生活の糧(かて)にしていた人もみんなできなくなった、いつ果てるともない放射能を取り除くための除染が始まり、あらゆる実害と風評被害を乗り越えなければならない、
原発事故は、他の事故には見られない「異質の危険」があり、ひとたび事故が発生し、放射性物質が外部に放出されれば、もはやそれを押さえる手立てはなく、被害は空間的にどこまでも広がり、時間的にも将来にわたって危害を及ぼし、地域社会の存在さえ危うくする、と、述べ意見書を採択するよう求めました。
○ この私の討論がよかったのか、選挙の前だったからなのか、議会で前日まで反対していた自民党をはじめ、民主・公明を含む全会派が賛成して「福島県の原発を全面廃炉にする意見書」は採択されました。これを受けて、知事も原発全面廃炉を目指すといい、原発に頼らない県の復興計画ができました。
○ 事故前から共産党が原発の危険性を強く指摘し対策を求めてきたことは県内ではかなり知られていました。福島県はそれまでの4年間を見ても、原発をつぎあてて長持ちさせる維持基準の導入、核燃料サイクルのプルサーマル計画、そして増設計画と進めてきておりましたので、私は共産党県議団を代表しての、県のエネルギー政策議員協議会などで時間の限り発言し危険性を指摘し対策を求めていましたので、ローカルですが、しょっちゅうテレビに出ていました。隣の席の自民党の議員が、「いいなー、俺もテレビに映りたい」と言いますので、発言しないと映らないよ!と言ったのですが、発言はほとんどありませんでした。
4年前の日本海で起きた大地震の時は、同じ東京電力の柏崎刈羽原発が被害にあったとき、共産党と住民団体は、地震と津波対策を県と東京電力に厳しく求めて交渉もしました。
今回の事故後、自民党の県議会議長さんが、宮川さんの言うことを聞いていれば少しは違っていたかも知れないと、志位委員長にあった時、言ったと聞きましたが、それはこのような経過があったからです。
大震災後、最大会派の自民党は、安全神話を信じて原発を推進してきたのは間違いだった、深くお詫び申し上げる、と代表質問で県民に頭を下げました。
○ さて皆さん、3・11直後は、いわき市南部の私の住んでいる勿来地区には、津波からの避難者、それに原発近隣地区から避難してくる人、地震で住めなくなった人と相次ぎ、近くの体育館などに一時3千人くらいが避難してきました。ご遺体の安置場所、おにぎり、水、毛布の手配から始まって、行政は対応しきれないような状況で、役所に集まった人たちが協力し合って各自動きました。
○ このように避難して来る人がいる一方で、逆に、放射能が心配でできるだけ遠くに避難しようと、押し出し式のように、いわき市から離れる人も多くいました。
いわき市は35万人の人口ですが、5~10万人のかたがたが一時いなくなったといわれています。
○ 皆さん、避難ってどのようなことを想定しますか。避難は逃げられる人しか逃げられないのです。当たり前ですが、病人・年寄り弱者が、とり残されるんです。
強制避難地区では、原発から数キロしかはなれていない施設のお年よりは、長時間の避難中のバスの中で、体育館の3月の冷たい床の上で見取られることもなく亡くなった方が多くおりました。
安全神話にどっぷりつかっていたので、避難訓練もろくしていませんでしたので、避難は悲惨なものでした。広野町はただ西に南にできるだけ遠くに逃げてくださいと有線放送で繰り返し、大熊町では公民館に集合させられ、行く先も分からず夜中に廃校になった学校などを目指し避難したといいます。動物も悲惨でした、つながれたまま牛舎で骨と皮になって死んでいる牛、飼い主を探しさまよう犬や猫がいました。
いわき市はごく一部を除いて強制避難地区ではありませんでしたが、長期にわたっての断水や医療関係者の避難で人工透析ができなくなり、行く先も告げられずに百台以上ものバスで透析を求めて避難していきました。
住宅地なのに、「明かりが見えない」とお年寄りから夜中に不安の電話がかかってきます。米味噌はあるがあとは何にも無いというので、近くの党員の方に連絡を取ったら魚の切り身と卵を持っていってくれました。断水が長期にわたった要因のひとつに水道業者が避難していなくなり工事ができなくなったこともあります。ガソリンを積んだ車の運転手が福島県の手前で降りてしまって福島県に入って来ないなど原発事故との複合問題がありました。
○ そんな中、私は放射被害をできるだけ少なくしながら救援活動をすることで工夫をしました。夫は、お風呂を磨いて水を張り、シールをして放射能の汚染がある前にと、水を確保し、食料も何とか調達し、しばらく篭城できるように準備をしました。多くの党員も不安があったとは思いますが、残された方々の支援に回りました。
一時スーパーのものは空っぽ・閉店になり、ガソリン不足も深刻だったのですが、代表が何時間もガソリンスタンドに並んで調達するなどして協力をしあいました。
電話などが災害当初は通じなかったので県境の漁港にいってみると、2日間も水も食べ物も無いと言いい、すぐに消防に給水を依頼し、炊き出しルートを決める手配をしました。知り合いの農家の方から「コメを提供したい、どこにもって行ったらいいんだ」と、声がかかり炊き出ししている公民館などを紹介し、また、そこから食料がとどいていないところに届くように手はずをするというようなこともしました。
あちこちの体育館に避難者している人を訪ね、何が不足しているか聞きながら、災害救助法適用の住宅対策などをチラシにして配り喜ばれました。
○党員や党支部の方々もがんばりました。水道が出ず、薬を飲む水も無いお年寄りに水を届けたり、物資がない中、肉や野菜を手に入れる苦労をしながら、津波や原発避難者に水や暖かいトン汁などを届け続けた支部もありました。自ら被災者なのに、周りをも含めて皆んなで助かろう、協力しようとがんばりました。
○いわき市とその周辺では、3・11日の大地震のあと、4月11日、12日とその後、2回も続けて大きな誘発地震があり、家の8割・8万8千棟の家が壊れ、その内、全壊と大規模半壊で1万5千棟が壊れました。災害救助法の支援策は、役所も最初はよく分からず共産党のビラが奪い合いになるほどでした。共産党のビラを握りしめ、丸をつけて役所に行くんです。全壊の場合は支援金がいくら出て、義援金がいくら出て、支援制度がこうあってとか・・、国保・介護・医療費の免除や無料化制度があってとか・・・、分かりやすいと役所にも好評でした。
なぜうちにはビラが入らないんだと、電話が来たり、赤旗を取りたいと事務所にも来る人もいました。
次々に出てくる要望に必死で対応しました。
例えば、地震で家が壊れても、最初は、津波の場合しか市は片付けないというんです。そんな事はおかしいと県と国にいい、地震による家屋もかたづけさせました。そしたら、今度は、物置は持っていかないと言うので、また、おかしいと修正させました。最後は基礎も片付けてもらえるようにすることができました。
昨日言ったことが、今日変わってしまうので、ダメだと言っていたことが次の日実施してもいいと言うことになってしまうので、市のトップの方が、おれ嘘ついているみたいだ、と言っていたと聞きました。
放射能の除染も国が20シーベルト以上しかやらないと言ったら、ワーッツと非難が起こり、わずか2日間で、1シーベルト以上は実施させるようにしました。
○ また、「子どものために何でもやるべき」と県議会の災害対策本部で要求した、共産党の県議会報告を見て・若いお母さんが事務所に飛び込んできました。宮川さんて、誰?私と同じ考えだといい、「子どものための放射能対策署名」を1ヶ月の間に8千人も集めまた方もいました。
子どもを守る親の思いは本当に強いです。署名は黒山のように人だかりになって集まりました。
○ その内、共産党中央委員会がボランテアを派遣してくれました。最初はボランテア受け入れの態勢を取るのも困難な感じで、来ていただいても対応できない、などの意見も出ましたが、皆さん自主的に活動してくれて、また、受け入れお世話をしてくれる人そのものも派遣してくれて半年近く事務所にいてくれました。本当に感謝しました。
体育館に避難している方への訪問はもちろん、津波での泥の掻き出しや地震の被害での聞き取り、災害救助法の手続きなど被災者に教えてくれたりしてくれました。
○ 当初の予定が4月だった県会議員選挙が11月に行われましたが、大震災後、毎日毎日がやらなければならないことに追われる日々のなかで、選挙に突入したような感じでした。でも有権者の皆さんはよく見てくれて、いざという時どこが頼りになるか、役に立つか文句なしに分かるんですね。
前に話した漁港で街頭演説をしていたら、おばあさんがよってきて、学会だけど今度は共産党だよ、ここは皆んな共産党だよといいます。
また、長年自民党に投票してきた人は、「自民党は旅行に連れていってくれた、共産党はそうゆうことはしてくれなかったけど、いざというとき本当によくやってくれた」と言いました。
県議選の投票率は前回比から10%も下がりましたが、いわき市選挙区は民主党の3人分の票より共産党の2人分の票のほうが多く、民主党は議席が1人になりました。
○ 災害と共産党の役割を振り返って見ると、まず、ボランテア精神にあふれている地域に根ざした多くの党員仲間がいる、地域に根ざしているから、皆が何に困って何を求めているかすぐ分かります。少しの勇気があれば、皆んなで集まれば大きな勇気になる、そして全国からの励ましがある、こんな中で自らが被災しながら周りを援助することもできるのです。その姿を見て地域のみなさんが信頼を寄せてくれて選挙の躍進につながったと思います。
○ 共産党の規約には「つねに国民の切実な利益の実現のためにたたかう」、「不屈の先進的役割をはたす」となっています。硬い文章なんですけど、要約すると回りに困っている人がいたら相談にのってできる限りのことを支援する、原発は心配なんだけど、いつでも避難の準備はしておくけど、少し勇気を出して周りの避難できない方々の支援に全力をあげるということだと思います。
○ 14ヶ月経って、緊急の対応は落ち着きつつありますが、先に述べたように基本的に現状は変わっておりません。国は早々に収束宣言をして賠償金を値切ったり、除染費用をケチったり、また、事故全体を軽く見せ、全国の原発を動かそうとしていますがとんでもないです。
○原発が本当に落ち着くのかどうかの問題もあります。爆発した原発の内部は放射能度が高く誰も近づけませんから、どうなっているかはっきり分かりません。放射能が高いままに固定された地域は今後何十年も帰れるかどうか不明です。また、除染されれば入れるかもしれない地区もありますが、洗い流したり土を削ったりすると出る、膨大な放射性廃棄物をどこに置くかまだ決まっていません。今も続く原発からあふれ出て海に流れ出ている汚染水の問題もあります。──いまだ福島県は漁業を再開できていません。
○ 実害と風評被害と重大な打撃を受けた福島県の産業復興はこれからです。東京電力と国に責任を取らせる原子力賠償もこれからです。子どもと県民の健康被害問題もこれからです。とりあえず18歳までの医療費無料化は県の制度として実施させる事ができましたが、これも本来は国のやるべきことです。
○ あれこれと頭が追いつかないような状況ですが、日本共産党中央委員会が私たちの意見を聞いて作ってくれた「一人ひとりの復興が基本、商売を続けたいという人全てに支援をすることが基本」、この政策に基づいて政策を具体化し実現のために全力をあげています。
長くかかる放射能災害の克服のためには、福島県のための財政支援や制度支援などの特別な法律が必要です。比例での東北代表・高橋千鶴子衆議院議員は大奮闘しています。色々本当にがんばってくれています。また、何党でも同じ要望が圧倒的ですから、地元の議員さんにも協力をお願いしています。
福島県支援の特別立法を作るにあたっても、「国の責任と財政支援が法案に無いので加えてください」とお願いしました。
○ 原発推進だった他党の県会議員の方も避難生活をしている人がいます、「14代続いた家もこれで終わりだ」と言っている方もいました。放射能は自民党にも民主党にも何党でも降ってきます。自らはもちろん地域の人たちを、避難生活を送る人たちの声を反映させないと生きていけません、未来を描けません。
○ 未曾有の大震災は今の法律では救えないものばかりです。そんな時、やっぱり国民の中に・県民の中に・被災者の中に入ってその声を聞く力のあるのは共産党です。党員がいる・支部がある・日常的に活動している後援会があります。
○ 青々として広がる田園地帯、緑の森、澄んだ空気、さわやかな風、福島県の最大の自慢は自然です、この全てを奪った原発の罪深さを強く感じています。
私は無神論者ですが、今度の福島の事故は神の最後の警告と思います。民主党政権が
原発を増設する方針を出したとき、どうしたらこれを阻止することができるか、圧倒的原発推進勢力の中で、どうしたら良いのか、悩んでいました。
東京電力のそれまでやってきたこと、数々の事故の連続と事故隠し、反省の無さとおごり、起こるべくして起こったと思います。今後、今度の地震以上のものが起きないと誰が保障できるでしょうか。原発が転げるほどの地震が起こるかも知れません。私たちが考え付かない、それこそ、さらに未曾有の震災があるかもしれません。たった数%の放射能しか放出しなかったのにこの被害、この苦しみなのです。
○ きのこや山菜をとって家の前に並べ、たまの休みに町の人が買いに来ることを楽しみにしていた、小さな山村が私の近くにあります。山の景色を見ながら、買いに来た人にお茶を振舞い、花を楽しんでもらい、おしゃべりをするのです。でも今は誰も来ない、さびしい・・と言っていました。この方たちが東京電力に賠償を求めて会に入ったときの文章があります。
①Aさん・・戦後60年・こんな希望も望みもない時はなかった、東電はこんな苦しみをしている我々のことを思っていないようだ、原発は1基も要らない、再稼動しないでください、1日も早く放射能をなくしてください。
②Bさん・・将来・人間・食物全て破壊、野菜椎茸米すべて売れない、我々の健康はどうなるのだ、ベクレル上げたり下げたり基準も分からない、原子力発電は火を消す実験をしないで作ったのか?人類破壊だ。
③Cさん・・自然豊かな私たちが住む田人、春になると山菜原木椎茸栽培して生計を立てていた、収入がなくなってしまった、生活が困難になってしまった、今日まで収入を得るため色々研究をしてきたのに、賠償もなく黙っていることはできない。
○ 今みんなと話をしています。政府が原発の収束まで40年かかるというので、40年生長生きしようと、話をしています。私110歳だ、私は95歳だと言っています。
目に見えない放射能は、徹底して計る、空間も計る、土も生産物も計る、計って、計って、目に見えるものにして、正しく怖がる、避難する人もしない人も、傷つけられた誇りと安心を取り戻すために全力を尽くす、その役割があると話しをしています。
この前、自家製野菜の放射能測定をやりました。旬の竹の子・蕨・ぜんまいなど、皆でわいわいがやがややりました、細かくみじん切りにしなくては測定できないということで、まな板と包丁を持って、ねぎを切ったら涙が出た、今年は竹の子泥棒が来ないなどいいながら、まるで料理教室です。楽しくやりました。
○ 除染が進まない、復興が見えない、賠償進まない、計らないで蕨食っちゃった、大丈夫かなど、コメも野菜も毎年贈っていた息子から今年は何にも要らないなど言われながら、心配をしながらも地域の共産党は明るいです、やることがいっぱいなので生き生きしています。こんな経験したくはなかったのですが、こうなったからは受けてたつしかありません。
○ 私は、私たちが受けた、受け続けているこの未曾有の被害を多くの方々にできるだけリアルに伝え、受け止めていただき、人間と原発放射能は絶対共存できない事を知っていただき、原発ゼロの日本にするための連帯を呼びかけるものです。このことは、日本の政治を、国民の命を守ることこそ政治の原点とする戦いだと思います。
○ 今、多くの県民の皆さんから共産党に対する期待が強まっています、県の幹部の方にも「比例でも何でもいいから、共産党、福島県から出てくれ」と言われました。
福島県は今度の衆議院選挙で、原発事故被災地のど真ん中から、自らが避難者でありながら、県民支援の先頭に立っている・県民の怒りと不安の声を代弁する候補者を決定しました。
○ ここ大阪では、清水ただしさんに本当にがんばってほしいと思います。
聞きましたら、16年前の阪神の大震災のときのボランテアを通して共産党に入られたとのことです。私もそのときリックサックを背負って神戸に来ました・ボランテアに来ました。今でも、あの時の空襲にあったような光景は忘れられません。
その時の政治は「個人の財産に税金は使えない」と言って何の支援策もありませんでした。しかし、その後、皆さんがんばってくれて不十分ながらも支援策も作ってくれて、今、本当に助かっています。
ボランテアを通して共産党に入った清水さんは、今度の震災を受けた岩手県の詩人の、生き方そのものがボランテア精神に貫かれている、雨に負けず、風にも負けずの宮沢賢治のようです。
どんなことがあっても国政に出してください。
そして私たち被災地東北も含めた国民の命と暮らしを守ってください。私も、皆さんとともにがんばる決意を申し上げて終わりにしたいと思います。
ありがとうございました。
以上
※ この文章は記録ではありません。私の記憶の中で思い出しながら書いたものです。その時どのような気持ちで行動したかなどを大切にして書きました。ですから数値が正確でなかったり、前後していたりするのも多いかと思いますが、私のこれまでの思いと思って読んでいただければと思います。
※ 多くの方にお読みいただけるよう、伝えてくださるようお願いいたします。
宮川えみ子